1945年8月6日、アメリカ軍が投下した原子爆弾は、広島市を一瞬にして壊滅させました。1946年11月1日に、中島町内10.72haが「中島公園」として、都市計画公園として指定されました。第二次世界大戦後の1949年、「広島平和記念都市建設法」が制定され、世界に向け人類の平和を願い訴える目的と、過去の過ちを繰り返さない為に、現在の公園の目的に変更し、選ばれた丹下健三が設計をしました。丹下の計画案の中には、現在の広島市中央公園や基町中層アパート群・市営基町高層アパートの辺りも、平和公園として構想され、基町のアパートがある周辺も当初は公園予定地とされていました。1951年8月6日に、現在の区域を平和記念施設とする事が決定し、1954年4月1日に完成しました。毎年8月6日には平和記念式典が開催され、原爆が投下された午前8時15分に黙祷が捧げられます。式典では市内中学校、高校の吹奏楽部による「ひろしま平和の歌」の伴奏、広島市の合唱団等による合唱が行われます。平和記念公園は被爆前も公園だったという認識がありますが、被爆前は中島地区と呼ばれ幕末から明治・大正にかけ、市内有数の繁華街として栄えた歴史のある街でした。
広々していて綺麗で、5月にはフラワーフェスティバルが開催されます。公園内には、松明と水をくださいと言ってなくなられた人のための、永遠の泉があります。