知利真良豊見親は16世紀初頭に宮古島を支配した仲宗根豊見親の三男です。宮古島は琉球の沖縄本島から約300km離れており、民族や文化、風習、言葉なども違っていましたが、宮古島支配を固めた仲宗根豊見親は琉球に従い、琉球に従わない八重山(石垣島)の「オヤケアカハチの乱(1500年)」の鎮圧の際に先鋒を務めました。知利真良豊見親は父とともに従軍し、乱の平定後は次男の祭金が4年在勤したあと知利真良豊見親が八重山守護職となり、そこで亡くなりました。墓が建造されたのは1750年頃と伝わっています。
宮古島の中心を北上すると15世紀後半から16世紀初頭に宮古島を支配した仲宗根豊見親の墓があり、その隣に3男で八重山守護職を務めた知利真良豊見親の墓があります。宮古島在来の墓「みゃーか」と琉球の横穴様式の折衷様式ですが、仲宗根豊見親の墓は厳密には16世紀初頭に仲宗根豊見親が父の真誉之子豊見親ために建造した墓で、知利真良豊見親の墓は18世紀中ごろに建造されたもので、約200年も年代が違うため外観は異なります。知利真良豊見親の墓は保存状態が良く、宮古島の墓様式の変遷や石工技術を知る上で貴重な史跡でもあります。
ガイドさんは朗らかな方で、島の歴史などをじっくりお話してくださいました。訪れた日が旧暦1/16でしたので、普段と異なる風景を目にする機会となりました。あっという間に時間が過ぎて、終了時刻をオーバーしましたが、参加して良かったです。